病原体の発見
科学の発達は、積み重ねである。
先人たちが一歩ずつ研究したものの上に、接ぎ木式にのばしていく。
公衆衛生の誕生
病原菌の発見に至るまでにも、その存在をとらえ、立ち向かった人がいた。
今では当たり前の消毒も、その誕生は大変なものであった。
悲劇の天才
ハンガリーの産婦人科医師、ゼンメルワイス・イグナッツこそ、目に見えない微生物の存在を直感でとらえ、対策をした初めての人間であろう。
彼は日替わりで助産婦と医師がおこなう分娩が、医師が分娩をおこなった場合だけ産褥熱の発生率が10倍も高いことに気づいた。
当時の出産は命がけで、医師の分娩では妊婦の死亡率が12%にも達していたのだ。
産褥熱は細菌の接触感染によるものだが、当時は病原体の概念がなかった。
見えない何か
あるとき、彼の同僚が産褥熱で死亡した遺体を切開したメスで自身が傷つけ、その後産褥熱様の症状で死んでしまう。
それで彼は、目に見えない何かが、産褥熱の原因であると推測した。
当時の医師たちは、頻繁に死体の解剖をおこなっていた。
白衣などない時代、死体をさわったそのままの状態で分娩に臨んでいたのだ。
これにより、妊婦に対して細菌が移されていたわけである。
公衆衛生の誕生
病原体の存在がわかっていなかった当時、彼は臭いに注目した。
臭いを消す作用のある塩素水で脱臭することを思いつき、初の消毒をおこなった。
1847年のこと。
塩素には脱臭作用もあるが、何より殺菌作用がある。
特に手洗いを励行した。
手洗い、たったそれだけのことが予後を大きく左右する
これにより、医師の分娩による産褥熱の死亡率が3%以下になった。
ところが、これを認めない人たちがいた。
当の医師たちである。
医学界の否定
当時の医師は神父同様、聖職者のようなものであるという自負があった。
ところが、彼の学説が正しいとすると、患者を殺していたのは、医師であるということになる。
それを受け入れるには、あまりにも耐えがたいことであった。
医学界は、保守的な勢力が彼を糾弾した。
ウィーン総合病院は、彼の任期が切れると、放逐してしまう。
彼の去った産婦人科の産褥熱の発生率は、もとの水準に戻ってしまう。
ウィーンを去った彼は、故郷ハンガリーのブダペスト大学産婦人科の教授に就任する。
そこでも目覚ましい公衆衛生の成果をあげる。
ところが、彼は性格に難があったようである。
他の産科に消毒を脅しに近い強要をしたり、自らの説を認めない者にはこっぴどく非難を繰り返した。
学界から「やばい人」認定された彼は、精神的に壊れてしまう。
悲劇の最後
1865年、精神病院で入院していた彼は、錯乱し、彼を静止しようとした監視員により暴行を受ける。
その傷がもとで、細菌感染し敗血症になって死亡、享年47歳。
自らが立ち向かった感染症により、死んでしまう。
回復された名誉
ゼンメルワイスの功績は、後にドーバー海峡を越えたイギリスで無菌手術の祖、ジョセフ・リスターにより再評価された。
リスターは、ゼンメルワイスのを、消毒法の真の創設者とたたえた。
1889年、パスツールが「ゼンメルワイスが消し去ろうとしていたのは連鎖球菌という殺し屋である」と発表した。
病原菌という概念が発見されたのは、彼の死後わずか11年後のことである。
功績を讃えブダペスト大学は、現在ではセンメルワイス大学と名をかえている。
センメルワイス反射
センメルワイスが提唱した理論は、当時の医学界からは徹底的に反発された。
科学会では、既成概念を覆す理論に対する反射的な拒絶を、センメルワイス反射と呼んでいる。
続きます