薄壁一枚の恐怖
ひやりとする瞬間。
最近は卒業してずいぶんと年月が流れ、経験とともに少なくはなった。
とはいえ、教科書通りにいかないのが医療であり、教科書通りでないのが人体である。
時として、未だにひやりとすることがある。
私は、外科の専門医のもとでも習練を積んだ。
そのため、難抜歯と呼ばれる、普通の歯科医なら大学病院に送るような症例もほとんどこなす。
というより、大学病院の並の外科医よりはよっぽど早い。
以前いた医療法人でも、外科医に抜歯は任せていたが、困っているときには私が替わって抜くという逆転現象が起きていた。
とはいえ、年に1,2症例は手に負えず、警察病院の口腔外科部長の石濱先生(北大の大先輩である)に依頼している。
下顎の水平埋伏智歯。慣れれば何ということはない
今回は、その難抜歯の話。
難しそうな症例
20代男性、虫歯の治療で来院。
一通りの治療が終了したので、残っていた右上8番(親知らず)の抜歯をおこなった。
8番は傾斜し、7番の脇腹に引っかかっているように見える。
難しい抜歯になるだろうな、との予感はしていたし、そう説明もしていた。
抜歯する上顎8番
普通の歯科医が難しいという抜歯は、下顎の水平埋伏智歯の抜歯だろう。
しかし、水平埋伏は数やっていれば、全く怖くはない。
私がむしろ怖いのは、上顎。
上顎洞と抜歯
上顎の歯列の上には、上顎洞と呼ばれる頭蓋骨内の空洞がある。
この空洞は鼻腔と米粒ほどの穴で交通していて、ここに炎症がおこるのが上顎洞炎(蓄膿症)。
この上顎洞に、人によっては、タケノコのように歯根がつきだしている。
それほど、上顎との位置関係は近い。
抜歯において、歯冠が丸々残っていれば怖くはないが、残根(歯冠部が無くなった歯)がここに落ちてしまうと、歯槽骨を破壊するしか取り出す手段はない。
歯牙が歯根膜から切り離された瞬間に、副鼻腔側から呼吸などで陰圧がかかれば、ひとたまりもなく残根は吸い込まれてしまう。
歯科における偶発症として(医療事故ではなく)おこってしまったものを、取り出す手術を見たことがある。
侵襲はかなり大きい。
当院の向かいの加藤耳鼻科の加藤先生に、鼻腔から取り出す方法はないかお尋ねしたことがあったが、残念ながらないそうである。
やはり、米粒ほどの穴からアプローチするのは不可能とのこと。
抜歯状況
麻酔後、7番の後ろに隠れて直視下では見えない8番を、ミラーを使ってアプローチする。
歯牙の上には食渣ががたまっていて、流しても流しても出てくる。
引っかかっている歯牙を取り出すには、歯冠を一部カットしなくてはならない。
ようやく食渣を取り除いた私は、ロングの除去バーで、引っかかっている部分のカットを行なおうとした。
予想外の展開
予想に反して、除去バーは抵抗なく、8番の歯冠のあるはずのところを通過した。
虫歯を放っておかれた期間が長かったため、ガワ一枚を残して、歯冠部は崩壊していた。
その後は通法通り、へーベル(エレベーターともいう、抜歯器具)を頬側に差し込む。
するとへーベルは予想もしない深さまですっと入り込んだ。
頬側(外側)には歯槽骨はほとんど存在しておらず、上顎洞まで抜けてしまったのだ。
難しいアプローチ
8番は、清掃できないため、虫歯はもちろん、智歯周囲炎が頻発したため、周辺骨が吸収されてしまっていたのだ。
へーベルは、骨と歯牙との間に滑り込ませて抜く道具。
骨がなければ力は逃げてしまい、歯は抜けない。
頬側にへーベルをかけるのは不可能。
かといって口蓋側(内側)にかければ、抜けた瞬間歯牙は上顎洞に転落する。
前か後ろのどちらかしかない。
安全を考え、口蓋側に切開を入れ、歯槽骨を開削する。
抜けた歯が通過するレールの役割をもたすためだ。
後ろ側に抜歯器具を入れるスペースはない。
とすれば、前方の7番との隙間にへーベルを入れ、内後方に向けて歯牙をおこしながら、ねじるように押し出していく。
へーベルが上顎洞入口の穴への障壁となるように。
かくして、無事歯は抜けた。
大きな穿孔
が、抜歯窩をみて血の気が引いた。
抜歯窩は直径1センチもの穴となって上顎洞に通じていた。
これだけのサイズは、私は初めて。
わずかでも慎重さに欠けていたら、歯牙は落ち込んでいただろう。
通常5ミリ以内であれば、穴は自然にふさがるとされている。
皮弁をよせて縫い上げたが、穴はふさがりきれない。
かといってスポンゼルなど入れようものなら、陰圧に引かれて落ち込んでしまう。
抜歯の出血による血餅で封鎖を期待することとした。
次の日、封鎖が悪ければ、その時点でシーネ(プラスチックの床装置)をつくって閉創すればよい。
果たして、次の日の消毒の際、抜歯窩は血餅によりうまく閉じていた。
後は経過をみて、抜糸すれば大丈夫だろう。
久しぶりに怖いと思った症例であった。
上顎洞穿孔 完