手も足も出なかった症例

私は少々の全身疾患なら、大抵何らかの抜け道を探して処置をする。
他の歯科医師よりは、ガイドラインや、薬物動態などに精通している自負があるためだ。
しかし、どうにもならないこともあるにはある。

複数の全身疾患

70代男性。
右上臼歯部の動揺と咬合痛を主訴に来院。
急性症状はない。

まず困ったのは、肩に不具合があり、パノラマ写真がとれなかったこと。
パノラマ写真は、放射線を発生する装置と、それを記録するフィルムにあたるイメージングプレートがセットになって、頭の周りを回転する。
その回転中に、肩にイメージングプレートが引っかかって撮影ができない。
仕方なくデンタル写真で該当部を撮影する。
予想通り重度の歯周病。
抜歯を要する。

問診欄には糖尿・心臓・腎臓とあったが、話を聞いていくうちに大変な全身疾患であることが判明する。
まず、重度の糖尿病で、腎機能が落ちて人工透析を受けていること。
HbA1cは7ほどで、抜歯ができるレベルにはコントロールされているが、血管障害は相当なもの。
当然のように高血圧があり、150ほど。

さらなる問題は、数年前に心臓の弁置換術を受けていること。
弁置換をおこなった患者は、もれなくワーファリン(抗凝固薬)を投与されている。

各疾患の抜歯対策

まずは、各疾患単独の抜歯に対する対応を書いていく。

高血圧

抜歯するには血圧が少々高いが、緊急性を要するときは、アドレナリンの含まれていないシタネストを使用する。
局所麻酔薬には、細血管の収縮作用のあるアドレナリンが、麻酔薬を局所から流出しにくくなるよう配合されている。
ところがアドレナリンは、昇圧作用を持つ。
そのため、多少麻酔効果は減弱するが、シタネストで対応することで、血圧へ影響を減らすことができる。

ワーファリンによる易出血性

出血傾向にある患者に対しては、当院では各種止血剤を用意している。
このような場合であれば、出血が予想されるので、あらかじめ口腔内の印象をとり、止血用のシーネ(床装置)を作成しておく。
抜歯後、抜歯窩内にスポンゼルないしアビテンなどの止血剤を封入し、縫合する。
それをシーネで押さえ込むことで、ほぼ止血は可能。

透析患者の抗生剤の使用

人工透析を受けている患者は、腎臓で排出される薬剤に対して注意が必要。
そのまま投与すると、排出が追い付かず、服用の度に血中濃度が上がりすぎてしまう。

そのため、腎臓で排出される薬を用いるときは、腎臓の機能と体重のデータから、投与量を正確に計算する必要がある。
また、透析の度に薬剤がろ過排出されるため、薬ごとにろ過率を計算し、補充しなくてはならない。

腎臓で排出されず、肝臓で処理されるタイプの抗生剤であれば、透析の影響を考えなくてよい。
ところが困ったことに、マクロライド系などの肝代謝されるタイプの抗菌薬は、静菌的な抗菌作用。
つまり、入ってきた細菌を即殺すのではなく、世代交代させないように作用する。
殺菌的な効果を期待して使用するには、不適。

臨床的には、抜歯であれば、腎排泄のペニシリン系の常用投与なら3日程度なら大丈夫とされている。
ニューキノロン系は、減量投与が必須。

ペニシリン系であれば、通常量は臨床的に可能とされる。長期投与は不可。
アモキシシリン

弁置換術の患者の抗生剤の使用

心臓に人工弁が用いられている患者の抜歯は、弁膜症の患者の抗菌薬投与に準ずる。
抜歯の際、血管の中に細菌が流入する。
その細菌が、人工弁にたどり着き、そこで病巣を形成する。

弁膜症の患者では、傷ついた心内膜に細菌がとりつき、感染性心内膜炎という重篤な疾患に陥る場合がある。(詳しくはこちら
人工弁の置換を受けた患者も、これに相当する感染症のリスクがある。
そのため、十分な殺菌力を持つ抗菌薬の投与がガイドラインに定められている。

その投与量は、アモキシシリンを2000㎎、抜歯の前に事前投与。
通常、アモキシシリンは、一回250㎎を一日3回服用。
投与量の大きさがわかるというもの。
ところが問題は、アモキシシリンが腎臓で排出されるタイプの薬剤であること。

総論

今回のケースで問題になるのは、抗菌薬の投与量。
アモキシシリンの、人工弁置換術をおこなった患者への投与量が、透析を受けている患者への投与上限量をはるかに超えてしまうことにある。
これには高次医療機関でTDM(治療薬物モニタリング)により、個々の用量・用法を設定して、経過を追いながら投薬する要がある。
患者は、歯科口腔外科併設の医療センターで人工弁置換術を受けていたため、そちらでの加療を指示した。

たかが抜歯であるが、なまじな知識では何も考えずに抜歯してしまう危険性がある。
問診と、薬物動態の重要さを再認識したケースであった。