梅毒の歴史と化学療法の誕生
今回からは、梅毒番外編。
はじめて人類が手にした化学療法、そのターゲットは梅毒。
梅毒が世界中に蔓延し、治療法がなかった時代。
それはわずか100年近く前の話。
売春などのにより広がった梅毒は、江戸時代後期では罹患率が30パーセント以上に上っていたという研究もある。
人身売買により遊郭などに売られた女性が罹患する運命にある、鬱の歴史。
それに打ち勝つべく、人類は化学療法を生み出した。
抗生物質などの化学療法の誕生により、我々の健康は安心なものになっている。
その化学療法は、梅毒と切っても切れない因縁がある。
今回は、医療人として、その戦いの歴史を紹介したい。
梅毒の蔓延
日本への侵入
スピロヘータ感染症である梅毒は、元は新大陸の風土病のようなものであったらしい。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した際、船員の誰かが、現地人と性行におよんだ結果、感染したという説が有力。
古来、ペストやコレラ、インフルエンザなど、大量死につながる感染症のパンデミックは、人の移動が関係している。
一瞬にして世界に広がった、新型インフルエンザの流行は記憶に新しい。
グローバル化は感染症に対して脆弱なのだ。
大西洋を越えた梅毒は、瞬く間にヨーロッパを席巻する。
そして、ポルトガル人の日本来航により、ついに日本に上陸してしまう。
コロンブスの航海からわずか20年ほど、梅毒は地球を回ってやってきた。
時は1512年、鉄砲の伝来より早いのだ。
日本に侵入した梅毒は、爆発的なスピードで蔓延する。
徳川家康の次男、結城秀康は梅毒で死ぬ。
そのため、徳川家康は決して遊女に手を出さなかったとの逸話がある。
定着
一夫一婦制のような倫理観は、もともとキリスト文化圏のもの。
キリスト教が高潔だからではなく、十字軍による聖地奪回の出征兵士の配偶者が、浮気しないようにつくられた倫理観。
出征している間に間男ができていたら、士気にかかわるのでできた。
それが現代において、多くの騒動の源となっているので迷惑至極。
ところが、昔の日本はそのような倫理観が薄く、性に関してルーズであった。
これが、梅毒の流行に拍車をかけた。
江戸時代後期は、梅毒の流行の時代。
遊女は梅毒を一度経験した後の方が、価値が高かったという。
経験的に第2期の後の潜伏期では、感染しないことがわかっていたからと思われる。
遊郭に売られ、梅毒に感染し、晩年は第3期以降の全身疾患に苦しめられる。
当時の遊女の人生は、救いがない、陰鬱そのものであっただろう。
一見華やかな絵図だが、実態は梅毒の感染が蔓延していた
そして時代は流れるも、明治になってもなお、梅毒は深刻な感染症であった。
防疫、消毒といった概念をもってしても、梅毒は立ち向かうすべがなかった。
梅毒の戦略
梅毒の恐ろしいところは、人を全て殺さないところ。
前回までに説明した、第3期以降の発症率が3分の1であることを思い出してほしい。
エボラやコレラといった、致死性の高い感染症は、短期的には恐ろしいが、隔離しておけば患者が死んでパンデミックは終焉を迎える。
梅毒は、発症せずに日常に潜み続けたり、初期は症状が軽くいったん平癒する。
梅毒トレポネーマを集団の中から追い出すことは、不可能。
このような発症が限定される感染症のひとつにHIV(エイズ)がある。
これも、発症しないキャリアによって、世界中に広がった。
意図したものなのかはわからないが、病原体の戦略としては、完璧である。
続きます