60代後半女性。
欠けた歯が舌にあたって痛いとのことで来院された。
歯医者は15年ぶり。
カリエス多数、欠損多数。
義歯は使用していない。
飛び込みで来院されたため、当日は鋭縁を丸めるに留めた。

後日、来院された際、治療計画を立てる。
問診票の全身疾患の欄には、乳がん。
進行度を聞くとステージ4。
すでにリンパをこえて、肺への転移がみられる。

癌は、発生した原発部位にとどまっているうちは予後は良好に経過する可能性が高いが、多臓器にまたがると治療は難しい。
基本的には手術の対象とはならず、化学療法で進行を遅らせて、生存期間を延ばすことが中心となる。
つまり、予後は良くはなく、時間はあまり残されていない。

そうなると、この患者における歯科治療は、元気なうちにさっさと咬める状態をつくりだし、おいしく食事をとれる期間を長くすることがベスト。
癌の化学療法如何によっては、食べ物を受け付けなくなることさえあるのだ。
ことがここに至れば、拙速は巧遅を凌駕する。
最善の治療が最高の治療ではない、最速の治療こそ最高の治療たりうるというわけだ。
治療の原則を無視したうえで、この状況におけるよりふさわしい治療を考慮した。

右上6、左上7は抜髄が必要な状況。
髄腔をあけると、長年にわたるカリエスにより二次象牙質で根管は狭窄。
これを教科書通りに治療するとかなり時間を要する。
そこでニッケルチタンのファイルで入るところまで拡大、FCで固定する。
後日、痛みがないのを確認し、ビタペックスを充填。
手法としては生活歯髄切断に近い。
その日のうちにコアを築造し、印象まで一気に行く。
耐久性は考慮する必要はない、何かあった時に外しやすい、乳歯と同じAg冠を選択する。

下顎の鉤歯はレジンにて修復。
通常なら金属冠にて修復するところを、レジンで形態をつくる。
通常であればう蝕検知液でカリエスは全て除去するが、省略。
これでもほとんどの歯科医院の治療内容と同じ、数年は大丈夫。
これで数本の歯の治療を一気に終わらせる。
残根は歯肉の面に合わせてカットし、レジンにて根面板にする。
この日のうちに下顎部分義歯の印象をおこなった。

銀冠ができたところで、上顎の義歯の印象。
先に下顎の義歯の印象をおこなったのは、下顎ろう提で上下いっぺんに咬合際得するため。
これで高さが決まる。
ゴールは近い。

かくして、2ヵ月弱ですべての補綴が完了した。
記録的な早さだ。
ご飯がおいしく食べれると大喜びされていた。

入歯の調整はほとんどおこなわない。
入歯安定剤であわせてしまう。
入歯安定剤を使用すると、義歯内面の骨の吸収がおこり、骨がやせ細ってあわなくなる。
しかし、それは長いスパンで見たときの話。
今回は快適さ優先にしても問題はないためだ。

医療において、見切りや手抜きは後々トラブルを招くジンクスのようなものがある。
今回の治療は数年先には問題が起きる可能性がある。
しかし、それは喜ばしい話。
患者が生き延びている、ということなのだから。
ジンクスが現実になるよう祈らずにはおれない。

余命との競争 完