入歯を使用されている人なら、入れ歯にクッションがあれば良いのにということは一度ならず考えたことがあろうかと思う。
入歯は固いからこそ、強く当たると痛い。
それゆえ薬局には入歯と粘膜の間に介在させる入歯安定剤が多数販売されている。
入歯安定剤も多種多様だ。
クッションのように衝撃をやわらげるもの、クリーム状で入れ歯が落ちてくるのを防ぐもの、隙間を埋めるもの、保湿を目的としたものなど用途に合わせて各メーカーがこぞって販売している。
老人ホームなどでは、サンプル品が大量に配布されている。
高齢化社会においては、製薬会社にとって入歯安定剤は大きな市場である。
ではなぜ、最初から入れ歯に柔らかい樹脂等を仕込まないのだろうか。
実は、義歯内面にシリコン樹脂を張り付けた製品は存在する。
ただし、保険製品ではなく、それなりの高価なものである。
シリコンは柔らかいが、接着性が非常に悪い。
通常義歯に流し込んで張り付ける製品もあるが、ことあるごとに剥離する。
それゆえ、シリコン裏装義歯は特殊な技術のある技工所で作成を依頼することとなる。
では、柔らかければそれなりに良いかというと、そうではない。
軟性材料を使用すると、大きな問題が発生するためだ。
それは、顎堤の骨の異状吸収である。
軟性材料内面の骨がやせ細ってしまうのだ。
人間の体は、使用しないものは機能がどんどん衰えていくという生理メカニズムがある。
筋肉を使わなければ、筋肉が落ちるように。
それは骨でも例外でなく、無重力下で体を支える必要のない宇宙飛行士は帰還すると骨量が低下している。
入歯の下の骨も同様で、一定の負荷を与え続けること骨梁は維持される。
入歯の作成において、歯槽骨の存在は重要だ。
ちょうど馬の背中に鞍を乗せるように、入れ歯は骨の上に乗せて荷重を負担させることができるのであるが、骨がないと入歯は安定しなくなる。
シリコンや入歯安定剤といった軟性材料を介して歯槽骨に荷重を与えても、歯槽骨が維持するのに必要な負荷には足りない。
結果、骨はどんどん痩せてゆき、最終的には盛り上がりを失い、極端なものになると食事中に骨折するところにまで至る。
義歯内面は大いに狂い、入れ歯は歯槽骨と全く合わなくなる。
そのため、シリコン義歯は狂いがでれば再度張り替えが必要になるし、入歯安定剤の使用者は安定剤から抜け出せなくなる。
しかも骨量は減っているのだから、負のスパイラルといえるだろう。
義歯治療の王道は、固い材料で、圧負担領域を正確に覆うことである。
しかし、それには現在の保険義歯作成の手順では全くの不足。
型取りひとつとっても、個人トレーやシリコンによる機能印象といった必要手順は省かれている。
入歯の調整も、月千円ポッキリでやらなくてはいけない。
保険の入歯の治療は、実は歯科医院にとって赤字部門の筆頭なのだ。
モノもモノなので、いくら調整しても、当然のように、最低限以上の性能は引き出しようがない。
自然、入歯安定剤を奨める医院が多くなる(当院では奨めていない)。
入歯の治療における理想は、最初の入れ歯できちんと適合するものを作成すること。
極力、残存歯槽骨を減らさないようにすることに尽きる。
失った骨は戻りはしない。
できることなら、ある程度の費用をかけてでも、自分の身を削るような補綴を避ける方が賢明といえよう。
負のスパイラルに陥ると、それを食い止めるのはなかなかに大変であるし、さらなる負担がかかるのだから。
入歯安定剤と軟性樹脂 完